昭和46年11月28日 朝の御理解



 御理解 第36節
 「日本国中のあらゆる神を、みな信心すると言うが、それはあまりの信心じゃ。人に物を頼むにも、一人に任すと、その人が力を入れて世話をしてくれるが、多くの人に頼めば、相談に暮れて物事はかどらず。大工を雇うても、棟梁がなければならぬ。草木でも芯というたら一つじゃ。神信心もこの一心を出すと、すぐにおかげが受けられる。」

 「すぐにおかげが受けられる」と云う程しの一心とは、どう云う一心だろうか。是は、物の例えで理解しておられますが。確かに、その人に責任を持たせる。あんたは、是から是迄あんたの責任だと云う風に、一人に頼むと、やはりそこに責任を持ってやりますけれども、あんたにも頼む、あんたにも頼む、と云う様な事をすると、やはりそこに、物事「相談に暮れてはかどらず」ありゃどうしたなら良かじゃろうかと云う風に、話し合ってぐらいしとる様な事では出来んとこう。
 家を建てるでもやはり、棟梁がなからなければ。棟梁が何人もおったんでは出来んと。こりゃ確かにそう云うものの道理と云う物は、そんなもんだとこう思う。だから信心もやはり、一心じゃなからなければならないと思う。昨日ここに、その一心を出すと、すぐにおかげが受けられるとこう仰っておられる。すぐにおかげが受けられると云う程しのなら一心とは、どう云う事だろうかと思う。
 私はもう金光様だけしか拝まん。ね、親代々から金光教だと。いかにもそれは、一心の様であるね。誰、他の金毘羅さんでもなからなければ、御稲荷さんでもない。お地蔵さんでもない。何何教でもない。もう私共が願う所は、所謂金光教の信心であり、金光教の、所謂金光様だけしか拝まんと。成程、それもやはり一心です。けども、そう云う人は沢山ありますけれど、もう「すぐにおかげが受けられる」と言った様な所には、なっていない様ですね。「すぐにおかげが受けられる」と云う一心。
 一心を貫くと云う事を申しますね。それはね貫く程のものがなからなければ一心じゃないです。一心を貫くと。一心一心ではいけん。ようそれは一つの心。所謂あれも是もと迷いがない。一つの心に定めておると云うではなくて、その一心を出すと其処におかげが受けられると云うのは、その一心を貫くと云う事。だから一心を出したから、すぐにおかげが頂かれるのではなくて、一心を貫いた先におかげが受けられるのである。
 すぐにと云うのは、ね、そんなら今日からもう一心になろうと云うたら、もう帰ったらおかげを受けとった、と言った様なものじゃないと思うですね。もう今日お話し頂いたら、もう金光様一本にせにゃならん。ほれでもう家の、八百万の神々様を例えばお祭りしとっても、皆んなこう、焼いたり祓うたりしてから、まぁ金光様だけにしたと。もうそげんしようと。と例えば腹を決めたからと云うて、すぐにおかげを受けられると云う事じゃない。昨日私面白い方と出会った。
 面白い方と云う訳でもないですけども、まぁ面白い話しを聞かせて頂いたんですけれども。昨日久しぶりで歯医者に、久富正義さんの所迄やらせて頂いた。まぁこの私の歯医者のこと、正義さん受け持っておって下さるですから、毎日正義さんの車で参りまして、もう十日ばっかり前に行かなきゃならなくなっとったんですけれども、私が都合が良い時には、正義さんが悪い。
 正義さんが都合の良い時に、私が出来んと言った様な風で、なら二人が、なら何時何時行こうと云う時には、向こうの先生が御座ざらんと言った様な事でね、出来なかった。昨日参りましたら、先生ちょっと待って下さい。ちょと応接、応接室でまっとって下さいと云うて、言われるもんですから私、まぁ応接室に通されましてね。参りましたら、珍しいお方が見えておって。
 と云うのは、あっち側の従兄弟さんにあたりますが、あの善導寺の「あさなき」という酒屋の大将が見えておりました。もう年配は私共ぐらいでしょうか、私共一つ多いかも知れません。くらいの方なんです。酒屋さんの、いわゆる旦那さんです。しばらくでしたし、椛目の時代に一回お参りになった事があるんです。して、その時一回お参りをした時の話しをなさるのです。先生実はあの時にこうこうじゃったと。私はお話を聞いてたまがった。本当に酒屋の大将ちゃ、よっぽど暇があんなさっとじゃろう。
 そげな研究なさる、なさる。私が云うた、酒屋さんが参って来ておりなさるが、もういっちょん、私といっちょん変わらんもうそれこそ、もう霊学の大家といわれるくらいに、もう大変、所謂学問的に、神様とか、仏様を研究しておられる。日田の麻生さんなんかがそうですね。だから一遍本当に二人お話しをされたら、面白かろうと私が思うた、て話した事でしたけれど。その、私はあの時、椛目に一遍お参りさせて頂いたのは、先生には申し上げませんじゃったけれども、実はお詫びに参ったでしたち。
 と云うのはその、昔から、金光様のご信心をなさいます。今でもやはり記念祭と云う様な時には、善導寺の教会にお参りになります。その時にその、金光様が偉いなぁと私は思った事はその、あそこに、立派なお宮がお祭りしている、その中のね、御神地です。中を開ける所がこう幣のごたるとが入っとった。だからもうこげなもんな、あったっちゃなんにならんちいうてから、引き出してから、あの、焼くか流すかなさったんです。所が先生もう、3時間もたちませんでした。
 もう裏の倉の方でえらい悲鳴が聞こえるから、行って見た所がその機械、あの女の使用人の方がね、機械に手をはさまれて、悲鳴きよるところじゃった。ほうりゃ金光様こりゃ、御座るばいち。と云うて、まぁお詫びは申しませんでしたけれども、そんな訳であん時には、お詫びに実はお参りしたでしたと云う話しからでした。ほりゃそげな事でしたかちいうて、話しを色々聞かせてもらったり、まぁ話させても、所謂もう時の経つのも忘れて、まぁ二人で信仰談ですね。所謂宗教の話し。
 まぁなかなかその、そして先生実は今私共はですね、井戸を掘りよります。50メートルから掘っとる。大変鳥栖と言う所は、水が良いから酒屋さんが多いわけですけれども、今度、その何処何処の拝みやさんに見てもろうた。そしたらそこに掘れっちいわっしゃるけん。掘った所がその金気どがしこ掘っても金気が出てくる。それで私は此処にあぁした、どう云う訳か知らんけれども、4日間。日を切ってですね、真清水になる様に、その私がその念力をその、まぁ拝みよると云う訳でしょう。
 なんかこう、病気でもこーうやってその治ると言った様なね。成程手からこの一つの霊破と云う物が出るんです。久富繁雄さんあたりの場合なんかは、そうやっぱそれでしょうね、一つの霊破です。繁雄さんの手があたると気持ちがよい。気持ちが良いだけじゃない、その例えば痛い痒いが治る。しかもその悪い所は大概手がそこで、手に感ずると。そう云う様なことも、なさるらしいです。
 初めて聞き、あなたがそげな事を拝まれたり、そんな事なされておると云う事はもう初めて、いえ先生私はこの首にかけとる、このペンダントと云うですか。あの、かけて、ほりゃ見事なその宝石で作っておられる。是にあんた八百万の神々様がこん中に入って御座る。だから私はもう、そのやっぱおかげ頂くと云う意味の話しを色々なさっておられました。だから今度の50メートルも掘ったけれども、金気が出る、金気が出ると云う事をです、だからもう当人やらんとはもうあてにはならんと。
 けれどもそれを真清水にする、その念力を持っておる。だから先生。今度真清水になったならいっちょ、あのお礼に、参拝させてもらいますばいち云うなさった。したら正義さんが横から言う。大将、そりゃもしあの、金気が真清水に、何の為にどうでんこうでん一遍合楽に、お願に参りなさんなち云うちから、お笑いしました事で御座いましたけれど。確かに合楽では、何件も昔から金気の水が、お願に見えて、真清水になっておる例が何時もありますからね。
 色々その、面白い話しを聞かせて頂いて、それから昨日はその久保山さんから手相ば見てもらいました。先生いっちょあんたの手相ば見せて下さいち。したらもう愈々感心してしまってから、先生あんたんとは、これから上は神様ですばい。これから下が人間で、これから上は神様ん手相ち。神様にも手相があるばいなと思うてから。けども是は、私はあながちね、しらごつじゃなかろうと思いました。
 何故って私共は、やはり神様を目指してから、日々修行させてもらいよりますから、もう半分だからね、だんだん日にちが経って来ると、今度はこの辺のから神様の手の如なるじゃろうと私は思いますよ。もう本当に十五、六の中学生の頃から、正義さんこう云う気がありますもん。同じ夢を一週間も続けて見ると云う様な事があった。それから色々その霊的な、所謂その霊界通信ですね。御霊様の世界とその、通信をすると言った様な、事を学問的にみます。
 又、実際自分でも今云う様にその、こう云う是をそのやられると云う様な、まぁお話しを聞かせて頂いたんですけれどもね。私が思うとに、私は水神さんよりも、私の方が各が上だと自分で思うとると。だから、水神がいくら、そのしたっちゃ、私がね、水神が腹かいてから、金気しか出さんなら、私の云うなら神格でもって、真清水にすると。しかしなかなかその、理に合った話しをなさいますですね。やはりその、貫いたものを持っておられますですね。
 で私は是が本当に、所謂金光様のご信心、いや私が此処で日々説かせて頂いておる話しがもし分かりなさったら、素晴らしい一心力とでも申しましょうかね。念力、その一心の力と云う物を、現す事の出来なさる方だなぁと、私は思わせて頂いた。別に何々と云う宗教を持っておられる訳でもなさそうでしたけれども、それは良く分かりません。けれどもそこ言われませんから、けれどもそのまぁ私共も一遍は体験した。例えば私も御霊の世界でも、神様の世界でも、是を肉眼で拝んだ時代があるんです
 。そしてもうそれこそあらゆる宗教が言う、又そこの薮神子神的な、当人さん達でさえ言われる様な、事実も決して嘘ではないと。あると。お不動さんの正体とか、御稲荷さんの正体を自分でも拝んだと言われるんです、お不動さんち云う方はこう厳しい顔しちゃるばってん、素晴らしい好男子ですよ。ちう様な事を自分で言っておられます。なんかそう云う一つの不思議な働きと言った様なものに、まぁ云うならば見せられておられる訳でしょうね。それをやはり一つの信仰だと、自分では思うておられる。
 そして自分は、水神さんよりも各が上だと言った様な思い込みをしておられると云う事は、やっぱ何十年間と云う、その貫いて来られたものです、そこからそう云う確信的なものが生まれて来ておる。まだ私一遍だってだから、あの自動車事故なんかにあった事がない。だからそのくらいな、例えば奇跡的な、不思議な事は、私は現れると思いますね。神の実在とか。ね、御霊の実在と言った様な事を信じて、やはりこうなんか、その貫かれるものが、あっておる。
 私はそれとは意味の違いますけれども「草木でも芯というたら一つじゃ」と「神信心もこの一心を出すとすぐにおかげは受けられる」と云うのはね、そう云う事だと思うんです一心を貫く。まぁ色々そちらのお話も聞かせて貰って、そしてまぁ私の話しをまぁまぁ聞いてもろうたわけなんですけれどもね。その話しを聞き終わってからじゃん。先生どうでんこうでもお互いいっちょ、あの新しい宗教を初めなさらんですかと。
 あなたが大坪さんでなさるけん、大の字を取ってから、大金光教ちゅうごたる風にはそうですかち。新しいその、まぁ宗教をね。いや、それも私思わんでんなかそう云う事を言いよった時代もあったですけれどもね、やっぱり何と言うても、私は金光様あって私があり、善導寺の親教会あって、私大坪一家があるのですから、是だけはやっぱり、その二十年間色々な時代がありましたけれども、やっぱりその新たな、所謂信仰宗教を起こそうと言った様な気持ちは全然、さらさら御座いませんでしたけれども、ね。
 けれども、私の言う所、私がつら、私が、の信心の貫いておると言うならばです。なら現在の金光教にも無い、でもいってはいない。まぁあらゆる宗教宗派が、其処までは到達しえてなかった事を、私は実は、申しよります。こりゃ皆さんも、其処の所を、例えて言うなら、私共もその久保山さんの話しじゃないけれども、その確かに、その御霊の世界とか色んなもう様々な、まぁ縁起的なと申しますかね。あの縁起を担ぐと言った様な縁起です。例えば、御霊さんが障って御座るとか、付いて御座るとか。
 あんな事を申します。だから、その別にその何々様かんなん様と言うが、霊力を持ちなさらんと云う事ではない。けれども私が云う云おうとじゃない。私が言うておる事はです、ね、所謂金光大神のお取次を頂いて、天地金乃神様一心に頂いておると云う事はです、そう云う今まで私も思うて来たり、そう云うまぁ事柄に、引っ掛かっておったのですけれどもです、もうそう云うその、色んなごちゃごちゃした神様とか御霊様とか、八百万の神々様等と云う事じゃなくてです。
 もうどう云う神様でも、全部天地金乃神様の中に包含される。ですから、ならお宅の御霊様ば助けなきゃ、助からんと云う様な事じゃなくて、所謂生神金光大神、天地金金乃神だけが助かる。又云うなら障れがあったちうのに、そのさり差し障りもない、いわば金光大神の前に天地金乃神様の前には、それこそ一切が消えて無くなってしまう程しのおかげの頂けれる道を、私は説かせて頂いておる。
 其の事をです、私共がひた受けに一心に受けて、拝むとか参るとかと修行をすると云うてもです、ね、私が常日頃言うておる所に一心を置いての信心。ね、様々な仏様やら神様やらの一つ流儀とか、おかげを下さる一つの方法と云う物が幾らもある。何何宗はあんな風におかげが現れる。何々教はこう云う生き方と。けどねそれを是を皆一つに一つにと云うよりもそれは全部一遍壊してしもうて、ね、ないものにして。
 そして、天地金乃神様のご信心に、いわば帰依し奉らなければ、金光大神のお取り次ぎを、そこから頂いていかだなければ、只その災難がよけられた、病気が治ったと云う程度ならいざしらずじゃけれども。ね、所謂天地の道理の、に合うたおかげは生まれて来ない。天地の道理に、合うたおかげ。ね。ですから云うならば、なら金光教の信心をさせて頂いておりましてもです、ね、只一生懸命に拝んで、おかげを頂いたとい云うだけの様な信心だったらです、是は天地の道理に合うて現れるおかげではないと。ね、
 一生懸命修行して、只受けたと云うおかげは、そっりゃおかげに違いないけれども、それは天地の道理に合うたおかげではないと。例えて、此処でもなら例えば北野の 堤さんの所の、あの奉祭、金光様のお祭りなさった時なんかは、私は朝から参りまして、もうそれこそ、右左にざっと、何々様、何々様と云うのが大きなお社を造られて、もうコンクリーで固めた御稲荷さんなんかが御座います。沢山あったです。
 それこそ八百万の神々様を、やはり熱心に信心深いお方だったらしいですからね、ほれで外へ出てから、もう一遍ぐるぐるっと回ってから、こうやって手たたいてもわらにゃんごと沢山色んな神様がお祭りしてあった。それで金光様をお祭りしたからには、そんなもんないらんというので、屋敷にいい札をうえ、うえてあるじゃないけれども、お祭りしてあるその、神様やら仏様やらを全部壊したり、又は焼いたりして、まぁすっきりなりました。村内の方達がもうびっくりしまして。
 あげな事しよるなら、今にその大変な事が起こると云う様な、わざわざそれを言うて下さる方もあったらしゅう御座いますけれども、それそのどうこうと云う事もない、だた金光様のご信心をされる様になって、一年一年それこそ年勝り代勝りにおかげを受けれおられると云う事実だけしかない訳。所謂そう云う例えば事に患わされる事が全然ない。と云う様な訳です。ですからなら金光様一本に絞ってしもうて、金光様の信心をさせてもろうておるから、ならおかげがすぐに受けられると云うのではなくてその信心。
 云うなら此処で私が言うておるその信心を、此処が一番肝心要の所だと、私が思っておるその事を、私共が頂き貫かせて頂くと云う事。ね、そう云う信心になるところに道理にあったおかげが頂けて来るなと。一生懸命拝んだから、願ったから。何々様ばたくさん拝んだからと云うのではない。其処でなら、その、何処に一心をおいて、何処を貫いたら良いかと云う事は、もう皆さんが、あぁやって、ね、今日の話を聞いて下さって分かっておられる事だと思います。
 合楽で信心するなら、何処を頂いて行かなければいかないかと。しかもこの生き方で行くならもう、ね、何々様も、何々教もいらない。もう本当に天地が、ね、私の為に自由になって下さると云う程のおかげが受けられる。それをなら此処では、ね、昨日からも申しました様に、成り行きを大事にすると云う事は、そのまま、神様のお心を大事にすると云う事と同じだからなんです。御事柄として受けて行くと云う事がです、ね、神様が私共に下さる事柄であるから、それは御事柄なのです。
 是に徹すると云う事はです、ね、いうならば、天地を貫く事になるのです。その思いは。天地の親神様の心を貫く事になるのです。ね、其処でなら私は何様も拝まん。もう家代々金光様に一本で、ね、改式もした。何々様も、ござらん。天照、いわゆる大神宮様ですらお祭りしてない。荒神様もお祭りしてない。只あるのは、御霊様と金光大神様だけだから、一心と云う事でない事その一心を貫かせて頂くものはね。
 天地を貫く程しのものでなからなければ、いわば一心とは言えないと云う事を皆さん分かって頂きたい、と今日は思うんです。只もう金光様一本という意味じゃない。だから同じ金光様ならご信心しておってもです、ね、大変御比礼の輝く教会がありますけれどもです、ただ祈念力が強いから、人が助かるとか、ね、それ今申しますと、以外の事でです、例えばそこに御利益が現れましても、おかげが現れましても、それはね、天地を貫く程しの事、のものではないと。ね。
 今合楽で私が申しております、そう云う生き方こそです、私は天地の、天地に道があるとするならば、天地の道を歩かせて頂いておるのであり、それを真の道と云うなら、真の道であり、ね、神様の心を射抜かせて頂く程。神様が一番求めて御座る所をです、私共がきちっと頂きとめると云う事なの。それにはどうでも成り行き、所謂神様の御働きそのものをです、御働きとして、頂く事なんだと思い定めさせて頂くと云う事が一心なんです。しかもそれを、受けて立たせてもらうと。
 それを受けて受けぬかせて頂くと云う事が、貫く事なんです。成程だからこそです、ね、云うなら、天地の親神様がね、バックであり、天地の親神様のおかげをです、現して頂いて行く頂いて行く事が出来ると云う、そう云うおかげを頂きたいと思う。為には一心と定めさせてもらい、そしてそれを貫かせて頂く。天地を貫くと云う、そう云う例えば尊い信心をさせて頂いており、私共が、それを日々、此処では頂いておると云う事になります。もう本当に、なんと云うでしょうかね。
 もうそれこそ枝の枝、葉の葉の様所をです、仏様じゃの神様じゃの。又は御霊様じゃのというて、もう沢山の、その仏様やら神様をつくっておる、ややこしい信心をしておる人が世の中にどのくらいあるか分かりません。ね。それを私共は金光様一本に絞ると云う意味ではなくて、ね、金光様が現して下さった天地金乃親神様のお心を頂きぬかせてもらう。貫かせて頂くと云う、所謂頂き方と云うかね。
 そう云う姿勢を、私共が思い込ませもらうと云う事がです、何に患いされる事も、所謂先祖の御霊もそれによって助かるでしょう。ね。その生き方で行ったら、天地に対する無礼も起こらず。ね、何々様の障りなさると云う事。もうそう云う生き方になん、例えば昨日私が聞きました久保山さんの話しを、沢山な例えば仏さんやら、まぁその御霊さんやらの色んなまぁ実際の姿と云う物を、聞かせてもらったんですけれども。
 そう云う人達、そう云うちゅうか、人達じゃなくて、そう云う神々様やら仏様やらがでもです、もう是には寄り付く事すら出来ん程しのものになって来る訳です。だから私は久保山さんに、又ぜひ一遍この、お話をもう一時あの、続けてさせて頂きたいけれども、ぜひ一遍お出かけ下さいと。こんだ話しもう少しさせて頂きましょうやと云うて、まぁお別れしたんですけれども。
 そう云う信心を例えば、土台としてです、それが一遍木っ端微塵に壊されて、そして生神金光大神の御取り次ぎを頂いて、天地金乃神様のお心をですね、そのガッチリと頂きとめて行く道をね、聞いて、まぁ機会があったら、頂こうと私は思うです。帰った時に、正義さんと話しました。本当に神様が、何時も何時もです、あの今日行こうと思や、行かれない事情があって、今日になったと云う事はやっぱ、確かに何か神様の御都合じゃったじゃろう。あぁ云う、その久保山さんのお話しを聞いてです。ね。
 仏様やら神様やら大変詳しい。しかも又実力者でもある。又自分は何々様よりも各が上といわれるような、一つの信念を持っておられる。まぁ確かにそうでしょう。「あさなき」と云うあれだけの財産の中心になられる主人ですから、それだけの徳を持っておらなければ、やはり、支える事が出来られないはずですからね、やはり一つの徳です、力です、ね、けどもそれだけでは、いけない。
 今日私が皆さんに聞いて頂いた様な事をです、ね、もし聞いて頂いたら、ね、ひょっとするともっと素晴らしい、いわゆる久保山さんですね。「あさなぎ」がいよいよ揺るがない、おかげを受けられる五十日祭になられるかもしれません。今日申しました事ならばです、ね、もうどんなんでも、私が体験しとる事ですから、云うならば、受け売りの話しではなくて、私が二十年間体験して来た話でも聞いて頂くなら、ね、もう何様も、ござらんと同じ、何様もないのと同じ。
 何々教も無いと同じという、ほどしのところまで、お話が出来るとこう思うです。だから皆さんは其処ん所を、何時も頂いて下さってあるのですから、皆さんの心の中に定められるものも、ただ今申しました様に、ね、一心を持って貫かせて頂くと云うその焦点がです、ね、神様の心を奉戴する。神様の心を頂いて、それを頂きぬかせて頂くと云う事がです、だと思い込ませて頂く事が一心と定める事になるのではないでしょうかね。
   どうぞ。